ある開拓の碑

 

 

私の療養生活も4年が経った。その間の趣味は歴史旧跡巡りであった。車であまり遠くに行けない日が何年もあったから、近場を巡ったのであった。

 

山梨市牧丘町柳平。大弛峠や焼山峠、乙女高原への通り道にある。ここに昨年秋、久しぶりに訪れた。乙女高原に行く途中に寄ったのである。牧丘第一小学校柳平分校(2007年より休校)の脇に車を止め、お弁当を食べた。すると、“農魂碑”とあるではないか。私は目を疑った。「忠魂碑」というのはある。しかし、“農魂碑”とはなにか?食後近づいてみた。

 

柳平の開拓は、農魂碑や『柳平開拓の唄』の裏の碑文によるとこうなる。

要略は、

「満蒙(現:中国東北部)開拓に挑むも、敗戦により昭和21年に帰国。同年中に柳平の開拓に挑み、標高1500mの開拓不能の地を克服しようとするも、当初12戸入植せるも、現在(碑の当時)4戸となる。50年の歳月を感じつつも、林道開設と共に、自給自足の営農から酪農に切替え、SCIの協力も得て、各賞をいただく報いを得て感無量のしだいであった。
しかし、突然開拓の地も、日本全国水の尊さにより、琴川ダム(乙女湖)建設が軌道に乗り、流域市町村の水源として変貌せざるをえなくなり、今後は琴川ダムと共に生きて往くことになる。」

 

この碑文は農魂碑の隣りにある、柳平開拓の唄の裏に讃として書かれている。農魂碑に書かれている文章も内容はだいたい同じであるが、昭和の開拓苦悩の思いが入っているためか、文章の烈迫感がすごい。

 

私がこの碑文を胸の中に入れているのは、汗と涙の結晶とも言える人生最大事である開拓が、湖の底に沈んでしまう、また開拓が水泡に返すともとれるダム建設に対し、一言のマイナスな言葉も言わず、前向きに、われらの農村は今後もダムと共に続くのだ。という碑文を書いた氏の前向きな姿勢に心打たれるからである。

私もこれから先、人生の中でさまざまな苦しみや楽しみを体験すると思うが、苦しい時、この碑文が心の支えになると思っている。

 

興味を持たれた方はぜひ一度、柳平の地を訪れてみてほしい。標高1500mの地で開拓に挑み、数々の苦悩にぶつかった氏らの心に寄り添いたい。

 


 

主要参考サイト
ウィキペディア 牧丘町 (2018.01.18.)

 

なお、ここに記した文章は、私の記憶・写真によるので、実際に行く際にはよく調べて行ってほしいです。

 

 

 

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